Oct
21
2007

頭で理解することと、心で感じること

MTによるサイト一部をブログ化、ポートフォリオ用の写真をプリント、展示の構成とプロフィールなどの文書作成がやっと片付き、やっと生活が落ち着いてきた。

使う脳みそが全然違うので、切り替えが大変だった。

先週は自分の写真展のパーティーに出席。
簡単なスピーチをしたのですが、声は震え足はガクガクするほど緊張してしまいました。

参加者はインテリア/デザイン/建築などの関係者が多く、「写真の善し悪しが分からない」から「気に入った」まで、様々な意見を頂戴しました。

知識がある方だと、時代と歴史とを照らし合わせて客観的に鑑賞し、そうでない方は、直感的に好みか好みでないかで見ているようでした。(私はどちらも大切だと思っている。)

特に印象的だったのは、「写真が分からない」という意見。「分からないなぁ〜」って。
頭で理解しようとするが、理解できないという。
写真を「分かる・分からない」で見るというのはどういうことだろう…。

「何か気になる」「何かひっかかる」ものがもしあったのなら、それが作品への興味につながり、理解したいと思うかもしれない。

また、コンセプトに興味を持ち、それを表現した写真に面白さを見出すかもしれない。

いずれにせよ、コンセプト的にも視覚的にも総合的にまだまだ強度が足らないのは事実。

それが「分からない」につながるのか?
「分からない」けれども、何か感じるものがあったのなら?

絵でも立体でもない「写真」という独特なメディア(文化背景も含めて)について改めて考えさせられました。

全く無名の私を取り上げて下さった○さんの、「最近さぼっていたのだから、これが制作のきっかけになれば」という言葉をしかと受け止め、もう少ししつこく続けてみようと心に決めた夜でした。

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